この画像は2026年撮影のもので、土岐川と大原川の合流点近くの堤防上から、脇之島(旧・脇郷)と前畑町(旧・池田町屋)方面を写したものです。
「池田町屋」の文字の上にある楕円二つは、それぞれ「稲荷山」と「池田富士」と呼ばれる山を示しています。池田城は嘗てこの稲荷山に在ったと伝えられていますが、今となってはこの様に、県立多治見病院の建物群に隠れてしまい、そこに古城が存在したとは到底想像し難いものです。ある意味〝幻〟と言えなくも無いのです(笑
「稲荷山」は「池田真徳稲荷神社」が遷座してからの呼び名で、それ以前は「城山」と呼び習わされていたようです。その事は史書にも記述があります。《「池田町屋郷土史」24頁の記述参照》
さて、現在のこの眺(ながめ)だけを以て、なぜ稲荷山に城が築かれたのかを疑問に思うとすれば、それはいささか勉強不足の謗りを免れないというものです。何故なら古城が存在した時代と現在とではその地勢が大きく異なっており、土岐川の流れがこの画像のそれとは全く違っていたからに他なりません。つまり古城が存在した時代にはこの撮影位置は存在しなかったのです。本サイト冒頭の絵画『土岐川の風景』を見直していただければ、この事は明瞭にご理解頂けると思います。
【他所者の疑問】
城山=稲荷山?
稲荷山と城山は本当に同じ場所なのだろうか?
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(三)池田城
[池田城址]
『濃陽志略』(宝歴二年(一七五二)尾張藩士、松平君山著)によれば「池田氏古城在 村東南岩山也、里民…」とあり、これは現在の池田稲荷のある岩山であると思われる。(第四図池田城址図参照)
明治二十九年、山麓である大門(池田町三丁目)にまつられていた稲荷神社を中央本線建設のため、この社地の大榎樹(周囲十三尺、約四㍍)、藤の大木(周囲八尺五寸、二・六㍍)を伐採し、且つ社殿を池田城のあったと思われる山上旧跡地に移し、現在の池田稲荷神社となっている。
従って、この山一帯を古来より城山と言い、城址は稲荷神社の境内を含む丘陵地、標高一四五㍍前後の位置にあったと思われる。城山の麓周囲北側より土岐川が蛇行し、南に向きをかえ、辛沢川が北西より流れ、合流している。これらの川と岩壁によって、自然の要塞を形成している。