〝幻〟6 土岐川

土岐川と池田城を考える上で現在の池田(町屋)の人々が思い描く土岐川の流れとは、どんなものなのでしょうか?
今(2026年)現在の土岐川を思い浮かべるとするなら、凡そ池田城の真実には辿り着けないと、他所者の私などは考えるのですが、如何でしょうか?

土岐川は池田城にとって非常に重要な要素であったと言われています。つまり天然の堀であったということです。
曰く『川と岩壁によって、自然の要塞を形成』「池田町屋郷土史」24頁)と。

この「自然の要塞」との点について私は大いに疑問を持っています。私の疑問の根拠の一つが本サイト冒頭の絵画『土岐川の風景』にあります。

この絵画が描かれた季節がいつ頃だったのかは明らかではありません。絵全体の雰囲気、殊に緑の多さから、初夏から盛夏にかけてではないかと私は想像しています。更に、右手奥の空に虹が架かっている事から、雨の降り続く梅雨の時季では無く、一時的に湧き上がった雷雲で激しい雨が通りすぎた後ではないかと思っています。

この様にここに描かれた土岐川を観察すると、特段水量が多い、大きな川とは考えづらく、「自然の要塞」と云うほどの機能を持っていたかは疑問に思えてきます。但し、この川が暴れ川であった事と城の防御に有用だった事とは別の話といえます。つまり、この辺りを流れる土岐川が暴れ川であったのは事実なのですが、その性質が必ずしも城の防御に役に立ったとは言い難いと考えています。

下に示した地図は、池田城が存在した時代に、土岐川の流れがどの様なものであったかを、かなり高い確率で思い描くことができる史料です。池田町屋の歴史、就中(なかんずく)池田城の存在、を考察する上では土岐川のこの流れ方が非常に重要であるといえます。

【暴れ川】
あばれがわ :氾濫(はんらん)しやすい川。〈スーパー大辞林 Mac版〉

【下に示したの地図】
アメリカ合州国スタンフォード大学の地図アーカイブにある「大日本帝國陸地測量部」が昭和七年三月二十五日に印刷し、同三月三十日に発行した「瀬戸」「五万分一地形図豊橋十三号」とある地図から切り出したものです。

原図は恐らく敗戦時にGHQに接収されたものと思われます。

一部欠損がある為読み取り難いのですが「明治二十四年測図大正?年修正測図昭和五年鉄道補入」とあります。

絵画『土岐川の風景』が描かれた時にはまだ開業していなかった太多線が、本地図では描かれており、「昭和五年鉄道補入」とは太多線を書き加えた事と思われますが、中央西線名古屋・多治見間の開業が明治三十三年である事から考えると、上記「昭和五年鉄道補入」とは、鉄道路線全体をこの年に補入したとも考えられます。何れにせよ真偽の程は今となっては不明です。

地図でお判りのように、嘗て土岐川は大きく湾曲した流れを持った川で、その流れは丁度池田城の眼下で急激に方向を変えており、この為に、雪解けや雨期・台風などで水量が増えると、この辺りで氾濫が起こり、池田町屋に大きな被害を繰り返しもたらしていました。氾濫とその影響については歴史的な事実として「池田町屋郷土史」にも多々記述がある処です。

こうした川の性質はややもすると城の防御に最適だと考えられがちですが、よくよく考えてみると、防御の利点よりも町屋(城下)のうける被害の方が遥かに甚大だったと考えられます。私はこの土岐川の性質が歴史から池田城を幻のごとく消失させた原因だと考えています。

【土岐川のクセ(癖)】 《文・絵;麤 啓 2025.06.29》
人間に癖があるように自然物にも癖がある、土岐川を見ていると本当にそう思うのだ。
まぁこんなことは他所者の私などが云う事ではないのだが、今の土岐川の流れから離れないと、池田城は判らない(理解できない)と思う。

今の辛沢川の写真、土岐川の写真

〜土岐川の癖〜
前畑(池田)側が低いので、流れは池田に向かって行く、脇之島側には石がたまる。

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